2階からケブラーダ

サッカーとかアニメとか色々

少女歌劇レヴュースタァライト2ndライブがエモエモのエモだった

スタァライトの2ndライブ、LVでの参加だったが感想を一言でいうと、見事に「スタァライト」されてしまった。アニメから入った身としてはレヴュー曲を全曲フルでやった点もさることながら、そこに作品のキャラクター達の殺陣を織り込んだ演出には本当に鳥肌ものだった。あの瞬間、あの舞台の上にはアニメから飛び出してきた九九組のメンバーが確かにいたし、その迫力と鬼気迫る演技を見るうち、自然と涙が溢れて止まらなくなってしまった。

やはり自分がある作品にハマるパターンとして、まず第一にアニメのキャラクターの存在があって、それを演じる声優にハマり、そして始めて自分にとっての大切な物語になるんだということ改めて思った。今日の九九組は間違いなくアニメから飛び出してきた九九組のみんなであり、同時に中の人の個性が存分に発揮された素晴らしい舞台だった。

今後も舞台少女達がどんな景色を見せてくれるのか、益々期待が高まるそんなライブを見せてくれてありがとう。

 

仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVERが教えてくれた物語との向き合い方

朝一で映画、仮面ライダー平成ジェネレーションズを見てきた。平成ライダーの映画を劇場にまで足を運んでみに行くのは久々だった(多分6年ぶりぐらい)。今回は平成最後、かつ今までの平成ライダーを総括する内容になるだろうということで、これはいち早く見に行かねばということで朝一の上映回を予約。全体的な感想としてはよくまとまっているなぁという印象だった。とかくオールライダー総出演系の映画にありがちな終始話の内容がとっちらかって、最後は強引にまとめたなぁという感はなかったので、綺麗な落としどころにストンと落ちたなと感じた。(野上良太郎の登場には事前のネタバレが全くなかったので、劇場の子供も大人も一様に驚嘆の声をあげていたのは印象的だった)

 

タイトルにもつながる感想としては、フィクション、物語、いわゆる創作物に対してどういうスタンスを取るべきか、一つの答えを力強く提示してくれた点は非常に良かった。仮面ライダーというものは作り物で実際の世界には存在していない。どんだけ自分がピンチに陥っても仮面ライダーは助けてくれない、ただの妄想の存在にすぎない紛い物なんだ。そんなことは十二分に分かりきっているけれど、いざその問いを投げかけられた時に迷ってしまう。じゃあ自分が好きな仮面ライダーとは一体なんなんだ?と自問自答しても答えはかえってこない。そんな自分に一つの答えを提示してくれたのが今作で、たとえ作り物であったとしても人の記憶の片隅にでも残るものがあれば、それはきっとその人にとって大切な何かになる、ということだった。

 

私たちが仮面ライダーに、そして数多ある物語に惹かれるのはその大切な何かを求めているからなんだなとこの映画を見て改めて実感した。現実にはない作り物であったとしても、その存在に救われている人間は必ずどこかにいる。自分にとって仮面ライダーとはそんな心の片隅に残り続ける、今の自分を作る大切な一つのパーツ。現実に仮面ライダーはいないけれど、その想いはきっといつか自分の支えになる日が来る。それはやがて自分のホントウになる日が来るのだろう。そんな風にこれからも沢山の物語との出会いを大切にしていきたいと思った。

小分けして考えよう

新しい物事、あるいは自分が今まで全く触れてこなかった分野に取り組む時、小分けにして学習して捉える視点が大切だと感じた。

 

あるひとつの学習対象に対して、その全体だけを見て学び始めようとするとその巨大さと膨大な量の覚えるべき事項の前に挫折してしまう。なのでひとつひとつの要素を全体から取り出し、小分けにして学ぶことが習得の近道になる。そして小分けにしたものをひとつひとつ結びつけて、最終的な全体像を把握する。このプロセスなしに学習をスタートすると、必ずどこかで脱落してしまう。

 

仮にどんなに難題にぶつかったとしても、その問題を分割し、対処のできるレベルにまで小分けにしてから取り組むことで、それを解決し、乗り越えられる。壁にぶつかったら、まずはマクロの視点ではなく、マクロの視点からそれを捉えることが大切。

目的あるいは目標が自分には必要

新しい環境に飛び込んで3週間。改めて自分には明確な「目的」あるいは「目標」が必要だと実感した。今自分がやっていることが一体何の目的をもって行われているのか、自分がこれをしたことが結果的に何につながっているのか、ひとつひとつの行動に明確な意味がないと頑張れない。自分は一体何をしているんだ?という疑問が常に頭の中に浮かんできてしまい、目の前の作業に集中出来なくなる。

なので新しいこと、習得したいことがあるときは、今取り組んでいることの意味を細分化し、この作業が何のために行われるべきことなのか、またこれを行った結果どんなベネフィットを得られるか、それを通じて自分はいかように成長出来るのか。常に「行動」に伴う「目的あるいは目標」が自分にとっては絶対的に必要であり、それを体系的に捉えておくことが自分にとってのプラスになると実感した。

今後はこの点を意識した取り組みを継続していきたい。

感想 映画「バッドジーニアス」

セッション22で話題に挙げられていた映画、バッドジーニアスを見てきた。

タイ映画を見るのは初めての経験だったが、割とすんなりと内容が入ってきて、とても見易い作りをしてるなという印象を持った。詳しい映画の内容は抜きにして、一番心に残ったのは金の持つ魅力とそれに魅入られて堕ちていく人間の様と、それに抗い己の過ちを悔いて、新たな一歩を踏み出す人間の対比である。

出自の優劣で人生の大半が決まってしまう社会において、それに立ち向かい努力していく貧困層の人々。だが一度でもその優越感を味わってしまうと、それに取り憑かれたようにどんどんと貪欲になっていき、己を忘れてしまう。主人公と似た境遇にありながら、金に魅入られ堕ちていくもう一人の天才の姿がとても悲しくもあり、悲哀に満ちていた。

過去の過ちを認め、それを正すための道のりを歩む主人公が正しいのか、否か。その答えは描かれていないが、それが正義であってほしいと強く願わずにはいられない。甘い考え方かもしれないけれど、そう生きられるのであれば、自分も常にその選択が出来る勇気とバランス感覚は忘れずに持ち続けたいと思う。

部屋が汚くなる原因の8割はテレビが原因なのかもしれない

新居に引っ越してから一週間が過ぎ去った。

幸いにも資金不足と準備不足により旧家にあった家具のほぼすべてを持ち込まずに住み始めたため、部屋は未だにクリーンさを保っている(単にものがないだけとも言えるが)。

 

そんな中、部屋を比較的きれいに保ててるかつ掃除に対するモチベーションを高く保っていられる原因は、テレビがないことが一番大きいのではないかと思い始めている。

以前の部屋には当たり前のようにテレビが有り、テレビを置くためのテレビ台、テレビを快適に見るためのソファ、テレビに繋いでいるブルーレイレコーダーにハードディスク、テレビを見ながら食事をするためのテーブルなどなど。

テレビ一台を置くだけでそれに付随してものが増えいていくという状態を避けられているのは、かなりのアドバンテージである。実際見たい番組もないのにだらだらと時間を過ごすこともなくなっているので、この先もテレビのない生活は続けていければと思う。

料理をつくれない人が存在する意味がわからない

よく料理ができないという人がいるが、そういう話を聞くと必ず「こいつ何言ってんだろう」と頭の中でずっと疑問に思っていた。料理なんて自分の食いたいものを検索窓に打ち込み、出てきたレシピの工程に従って作れば誰でも作れるし、それができないという意味がわからない。

 

もちろんものすごく高度な技術やセンスを必要そするようなものは別だが、日常出口にするものを作るぶんには、ただただレシピ通りに作れば誰にでもかんたんに料理なんてものはできるはずであろう。だのにそれが出来ないというのが自分にとってはどうしても理解が追いつかない感覚であるのだ。

 

料理をする気が起きない、する時間がない、物理的にできないという理由であれば理解ができるが、そういった外因がなくても料理を作ることが出来ない人がいる。その存在が自分にとってはすごく未知の存在であり、謎の深い人物である。なぜ料理ができない人は料理ができないのだろう。何度考えても答えは出ない。